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京都地方裁判所 平成9年(行ウ)10号 判決

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

村井豊明

杉山潔志

村松いづみ

山下宣

被告

地方公務員災害補償基金京都府支部長荒巻禎一

右訴訟代理人弁護士

尾崎高司

右指定代理人

石垣光雄

大上良一

丸谷淳一

阿部晃

主文

一  被告が原告に対し、平成七年一〇月四日付けでした地方公務員災害補償法による公務外認定処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文と同旨

第二事案の概要

一  本件は、原告が、公立小学校の教諭であった夫の甲野太郎(以下「被災職員」という。)が死亡したのは公務上の災害に当たるとして、被告のした公務外認定処分の取消しを求める事案である。

二  争いのない事実等

1  被災職員(昭和二四年六月一三日生)は、昭和四九年四月に京都市立小学校常勤講師として勤務した後、昭和五〇年四月に京都市立小学校教諭として採用され、昭和六二年四月からは京都市立梅屋小学校(以下「梅屋小学校」という。)に勤務し、同月から第一学年を、昭和六三年四月からは第二学年をそれぞれ担当していた。

2  被災職員は、平成元年二月二一日午前六時ころ急性心不全により死亡した。

3(一)  原告は、被災職員の妻であるが、平成二年一二月一一日、被告に対し、被災職員の死亡が公務上の災害に当たるとして、地方公務員災害補償法四五条に基づき公務災害認定を請求した。これに対し、被告は、平成七年一〇月四日付けで公務外認定処分(以下「本件処分」という。)をし、同日付けで原告に通知した。

(二)  原告は、本件処分を不服として、同年一二月四日付けで地方公務員災害補償基金京都支部審査会に対し審査請求をしたが、同審査会は平成八年一〇月三一日付けでこれを棄却する旨の裁決をした。

(三)  さらに、原告は、同年一一月二六日付けで地方公務員災害補償基金審査会に対し、再審査請求をしたが、同審査会が三か月以上経過しても裁決をしなかったため、平成九年三月一〇日に本訴を提起した。なお、同審査会は、同年一〇月一五日付けで原告の再審査請求を棄却する旨の裁決をした(〈証拠略〉)。

三  争点

被災職員の死亡は公務上の災害に当たるか(公務起因性の有無)。

四  原告の主張

被災職員の死亡は、以下のとおり、昭和六三年四月以降従事した梅屋小学校教諭としての公務に起因するもので、公務上の災害に当たる。

1  被災職員が昭和六三年度に梅屋小学校教諭として担当した職務

被災職員は、昭和六三年四月から、第二学年の学級担任のほか、教務主任、等の計一七の校務分掌を担当したうえ、右校務分掌以外に、育友会の庶務補佐、スポーツ教室におけるサッカーの指導を担当したが、その職務の内容は次のとおりである。

(一) 教務主任としての職務

(1) 校務分掌表の作成

(2) 時間割表の作成

(3) 学校行事年間計面の作成

(4) 学校教育目標の作成

(5) 通知票の改訂

(6) 「心をたがやす教育」実施計画書の作成とその遂行

(7) 校内自主研究発表の企画立案・準備

(8) 新採用教員の指導

(9) 授業参観の企画立案・準備

(10) 造形展の準備

(11) 新入生の半日入学の受入れ準備・当日の連絡調整

(12) 卓球大会の準備・当日の参加

(13) その他の雑務

(二) 学級担任としての職務

(1) 授業等

(2) 学校行事への参加

(3) 保護者との連絡

(4) 児童に対する生活指導

(5) その他の雑務

(三) 同和教育主任としての職務

(1) 校内同和研修

(2) 素地指導案集の作成

(3) 保護者啓発とその準備

(四) 体育関係の職務

(1) 教科体育主任としての職務

(2) 校内自主研究発表に関する職務

(3) 体育分野の学校行事に関する職務

(4) 梅屋スポーツ教室に関する職務

(五) その他の職務

(1) 算数教科担当としての職務

(2) 研究委員会委員としての職務

(3) 児童活動・町別児童会に関する職務

(4) 学校行事儀式主任としての職務

(5) 安全教育に関する職務

(6) 調査統計主任としての職務

(7) 施設備品担当者としての職務

(8) 育友会活動の庶務補佐としての職務

2  被災職員の公務の過重性

(一) 梅屋小学校における職場環境の特殊性

昭和六三年度、梅屋小学校は、学級数が九であり、その数が一二に満たないいわゆる小規模校であったうえ、校長、教頭を除く教員の配置数は京都府教育委員会の教職員配当基準による一〇を下回る九名であった。しかも、右九名の教員のうち、五名が転入者で、そのうちの一名が新規採用者、二名が常勤講師であったことから、前年度から在籍していた四名の教員、特に同年四月に教務主任に任命された被災職員の校務分掌上の負担が過大であった。

(二) 校務分掌上の過大な負担

被災職員は、昭和六三年度、前記のとおり、第二学年の学級担任のほか、教務主任、教科体育主任、同和教育主任を含む一七もの校務分掌を担当し、さらに、育友会の庶務補佐、スポーツ教室も担当した。

(三) 昭和六三年度からの過密な労働実態

被災職員は、昭和六三年度当初から前記の職務を一年間を通して、間断なく並行的に担当していたうえ、その職務は時間的負担が大きく、次のとおり、持ち帰り仕事が常態化していた。

(1) 一学期

平日の午後八時半から一〇時過ぎまで持ち帰り仕事を日常的にこなし、休日も持ち帰り仕事をした。

(2) 二学期

午後七時半ころから午後一一時過ぎまでの持ち帰り仕事が恒常化し、特に一〇月三一日からの三日間は校内自主研究発表用の冊子の原稿点検のため少なくとも午前〇時まで自宅で仕事をした。

(3) 三学期

平成元年一月下旬からの一か月間は持ち帰り仕事を少なくとも連日午前〇時ころまで行っており、死亡前一か月間の持ち帰り仕事は一二五・五時間、梅屋小学校における超過勤務時間を合わせれば、合計で一五九・五時間に及び、死亡の前の週である二月一二日から同月一八日までの一週間の持ち帰り仕事は三四・五時間に及んだ。

(四) 被災職員自身の事情

被災職員は、責任感が強く、几帳面で、人から頼まれれば断れない性格のため、前記のとおり、教務主任を初めとする多種雑多な職務を引き受け、期限に追われながらその職務を遂行したため精神的ストレスが蓄積した。

(五) 校長からの精神的重圧

校長は、被災職員から提出された週案にコメントを付していたが、昭和六三年度の校内自主研究発表を控え、教務主任、教科体育主任等であった被災職員に右コメントを通して精神的なプレッシャーを与えた。

3  被災職員の健康状態の推移

被災職員は、昭和六三年三月までは健康診断上特に問題はなく、既往症もなかったが、同年四月以降は、次のとおり、身体の不調を訴えるようになった。

(一) 以前は休日には子供を公園に連れて行くのが普通であったが、同年四月以降は「しんどい」と言って出かけなくなった。また、家事に非協力的になり、不眠気味で、常に眠い、しんどいともらすようになった。

(二) 校内自主研究発表の準備が追い込みに入った同年一〇月下旬には風邪を引いたが、無理な勤務のため休養、睡眠がとれず、健康を損ねた。また、二学期ころから「ああしんど」等ともらすようになった。

(三) 平成元年一月二八日には頭痛のため出張から早退し、同年二月には朝、頭痛があったが、無理を押して風邪薬を飲んで出勤したことが三回あった。同月中旬には胃の不調を訴え、胃腸薬を服用し、食べ物の嗜好も脂っこいものから和食に変わり、給食のパンも残すようになった。同月一一日には疲労が限界に達しており、一日中寝ていた。同月一四日ころには職員室の壁にもたれ、冷や汗をかいたような感じで「しんどい」とか、胃を押さえて調子が悪いともらしていた。

4  被災職員の死因

被災職員は、急性心筋梗塞(又は急性心筋虚血)を発症し、それに続発する致死的不整脈による心不全により死亡した。

心筋梗塞又は虚血性心疾患の原因としては、身体的負荷に加え、精神的ストレスが医学上も承認されているところ、被災職員の死亡の原因は、昭和六三年四月以降の前記多忙な職務による慢性的な疲労と精神的ストレスの蓄積にある。

5  公務起因性

当該職員の死亡に公務起因性が認められるためには、公務と死亡との間に相当因果関係が存在しなければならないが、公務が相対的に有力な原因である場合に限定するのは妥当でなく、当該職員の素因や基礎疾患等公務外の原因が競合する場合であっても、公務の遂行が当該職員にとって精神的、肉体的に過重負担となり、基礎疾患等を自然的経過を超えて急激に増悪させて死亡の時期を早めるなど素因や基礎疾患等と共働原因となって死亡の結果を生じさせたことが認められれば足りるというべきである。

本件において、被災職員が急性心筋梗塞(又は急性心筋虚血)で死亡した原因は、被災職員が昭和六三年四月から、教務主任、学級担任、同和教育主任、教科体育主任等の精神的・肉体的にも負担が重く多忙な職務を誠実に遂行し、著しい労働時間の増大と睡眠時間の減少による慢性的な疲労と精神的ストレスが蓄積したことにあるから、被災職員の死亡は公務に起因するものである。

五  被告の主張

公務起因性があるというためには、公務と疾病との間に事実的因果関係(条件関係)及び相当因果関係があることが必要であるところ、本件においては、次のとおり、被災職員の死亡と梅屋小学校における公務との間にいずれの因果関係も認められないので、被災職員の死亡は公務に起因するものではない。

1  事実的因果関係の不存在

当該職員の死亡と公務との間に事実的因果関係が認められるためには、当該職員が公務に従事していなければ死亡しなかったことが高度の蓋然性をもって証明されなければならない。しかし、被災職員が死亡した原因及びその機序は不明であり、右高度の蓋然性はない。

原告は、公務による精神的ストレスが急性心筋梗塞を発症させたとするが、右見解は医学的に承認されたものではなく、その発症の機序について証明が十分でない。また、被災職員の生前の健康状態に関する精密な医学的データがなく、死亡後も剖検が行われなかったため、右心筋梗塞を招来した素因(血管の病変等の心疾患)の有無すら不明であるし、被災職員が死亡直前に公務上の異常な出来事に遭遇したことはないから、心因性の要因による心臓突然死も考えられない。そうすると、被災職員が死亡した原因が不明であるから、原因不明の青壮年急死症候群等である可能性を否定できず、公務に従事していなくとも死亡していた可能性は十分にあるから、公務との間の事実的因果関係を認めるには足りない。

2  相当因果関係の不存在

公務災害と認められるためには、さらに当該疾病が公務と相当因果関係があるものでなければならないところ、疾病の発症について、複数の原因が競合する場合には公務が相対的に有力な原因でなければならない。

心臓疾患は、通常、高血圧や動脈硬化等による血管の病変等の素因があり、それが加齢や喫煙、飲酒等の要因等によって増悪し、発症するとされている。また、医学的にも、負傷に起因するものを除き、血管病変等の形成に当たって労働が直接の原因となるものではないと考えられている。そのため、心臓疾患が公務に起因して発症したといえるためには、公務によって当該職員の有していた基礎的な病態が自然経過を超えて急激に著しく増悪し、発症したと明らかに認められなければならない。すなわち、心臓疾患の場合に公務起因性が認められるためには、「発症前に、業務に関連してその発生状態を時間的、場所的に明確にし得る異常な出来事に遭遇したことにより又は通常の日常の業務(被災職員が占めていた職に割り当てられた職務のうち、正規の勤務時間内に行う日常の業務をいう。)に比較して特に質的に若しくは量的に過重な業務に従事したことにより、医学経験則上、心・血管疾患及び脳血管等の発症の基礎となる病態(血管病変等)を加齢、一般的生活等によるいわゆる自然的経過を超えて急激に著しく増悪させ、当該疾患の発症原因とするに足る強度の精神的又は肉体的負荷(「過重負荷」)を受けていたことが必要である」(平成七年三月三一日地基補第四七号「心・血管疾患及び脳血管疾患等業務関連疾患の公務上災害の認定について」。以下「本件通知」という。)と解するのが相当である。しかし、被災職員の死亡当日、死亡前日、死亡前一週間、死亡前一か月間、死亡前一年間の職務及び自宅への持ち帰り仕事は、次のとおり、いずれも過重とはいえないうえ、公務以外に有力な他の原因が存在するから、被災職員の死亡と公務との間に相当因果関係は認められない。

(一) 死亡前日(平成元年二月二〇日)

被災職員は、午前八時ころ出勤し、一・二校時の授業を行い、中間休みに雪山教室の中止を決定し、三・四校時の授業後、給食指導を行いながら本読みカード等の添削等を行い、昼休みに運営委員会を開催し、午後二時から午後三時まで校内生徒指導研修会に参加し、午後四時三〇分ころ帰宅した。右公務は、通常の範囲内であり、特に量・質的に過重なものではないし、特に異常な出来事に遭遇したとは認められない。なお、帰宅後の午後八時三〇分ころ、電話があり、電気陶芸窯のスイッチを切るため同僚職員とともに梅屋小学校に赴いており、右行為には緊急性・公務遂行性が認められるが、異常な出来事に遭遇したとまではいえない。

(二) 死亡前一週間

その職務は、通常の授業、授業参観、保護者懇談会、造形展等の開催、全市の体育主任研修会への参加であって、これらは、通常公務の範囲内であり、本件疾病を発症させるほどの過重なものではないし、特に異常な出来事に遭遇したとも認められない。

(三) 死亡前一か月間

その職務は、通常の授業、国語研究会、きょうとタイム発表会への参加、校内同和研修会の開催等であり、特に困難を来す文書の作成に従事したわけではなく、いずれにしても通常公務の範囲内であり、本件疾病を発症させるほどの過重なものではないし、特に異常な出来事に遭遇したとも認められない。

(四) 死亡前一年間

死亡前一か月以前の公務については、これと心臓突然死との因果関係が医学的に不明であるため、その過重性の有無を検討することには意味はないが、その内容は次のとおりであり、被災職員は、毎日規則正しい生活を送り、夏休みには毎日一〇時間を超える睡眠時間をとっており、公務による精神的・肉体的負荷はその都度解消されていたから、公務起因性は認められない。

(1) 校務分掌の数

梅屋小学校はいわゆる小規模校であり、藤井教員は昭和六一年度に一七の、塚本教員は昭和六二年度に一七の、小島教員は昭和六三年度に一九の各校務分掌を担当しており、被災職員が特に多くの校務分掌を担当していたとはいえないし、数のみで公務の過重性を判断することは妥当でない。

(2) 教務主任としての職務

被災職員は教務主任への就任を校長等の管理職へのステップと意識して積極的に引き受けた。被災職員は、初めて教務主任に就任したため、校長らは同人を支援する態勢をとっており、その仕事は軽減されていたから、特に多忙ということはなかった。

(3) 学級担任としての職務

被災職員は、昭和六三年度に二学年を担当しており、前年度の担任学級の持ち上がりであったため、負担は軽く、また、授業は早く終わるので午後の時間を仕事に使うことができた。

被災職員が教材として配布したプリント類のすべてが手製の独自のものではなく、市販のものや原告が作成したものもあった。また、「わかば」の作成も、決まった書式に学校行事等を記入する程度の作業である。

(4) 同和教育主任としての職務

梅屋小学校の校区には同和関係団体がないし、厳しい同和問題が発生していたわけでもないから、同和教育主任の仕事が特にストレスを与えることはない。

校内同和研修会については、司会や書記が決められ、その担当者が中心となって行われていたし、その講師の選定及び依頼は校長が行っていた。保護者に対する啓発活動に際しては、被災職員は司会をしたが、映画の上映は視聴覚主任が行っていた。また、素地指導案集について、各学年主任がその内容を作成しており、被災職員はその取りまとめをしていたにすぎない。

(5) 体育関係の職務

ア 教科体育主任としての職務用具の管理、整理整頓は体育の係で行うなど、被災職員がすべてを行っていたのではない。

イ 校内自主研究発表に関する職務

研究委員会が主体となって行っており、橋本教員が最も熱心であった。運動データの収集は、各担当教員が行い、被災職員は取りまとめの作業をした。

ウ 体育分野の学校行事に関する職務

校内スポーツ行事は体育部が行い、各行事ごとに担当者が決まっていたので、その担当者が主として行っていた。なお、昭和六三年度には雪山教室は実施されなかった。

エ 梅屋スポーツ教室の職務

同教室におけるサッカーの指導は週一回であり、小島教員と共同で担当していた。

(6) その他の職務

ア 児童活動は、主に五、六学年の学級を担任する教員が担当しており、被災職員の職務ではない。

イ 学校行事としての儀式主任の職務は、卒業式、入学式の日程の原案、式次第の作成程度である。

ウ 安全教育に関する職務は、橋本、荒木両教員の職務である。

エ 調査統計主任の職務は、ほとんど教頭が行っていた。

オ 設備・備品担当者としての職務

各教科ごとに担当しており、被災職員一人の職務ではない。また、市教育委員会による備品検査は、各担当者らとの共同作業であったし、被災職員が右検査のために午前〇時を超えて残っていたことはない。

(五) 勤務時間

被災職員は、昭和六三年四月以降も以前と変わらず午前八時三〇分前後に出勤し、午後四時三〇分ころには学校を出ていた。

(六) 持ち帰り仕事

その担当校務等からすれば被災職員はある程度持ち帰り仕事を行っていたが、自宅での作業は任命権者の支配管理下にはなく、自己のペースで自由に行えるから時間外勤務と同様に評価することはできない。しかも、原告らが作成した「甲野先生の時間外勤務と持ち帰り仕事一覧」(〈証拠略〉)は信用できない。

(七) 被災職員の健康状態

被災職員が健康状態が悪いと訴えたことはなかった。被災職員は、椅子に座る時等に「ああ、しんど」ということがあったが、これは同人の口癖であり、平成元年一月の異動調査票にも辞めたいという希望の記載はなかった。

(八) 日常生活

昭和六三年四月以降の睡眠時間は、原告らが作成した「甲野先生の時間外勤務と持ち帰り仕事一覧」によっても、平日が仮眠を除き概ね七時間三〇分ないし八時間三〇分(但し、平成元年二月一七日からは六時間ないし六時間三〇分。)、夏休み中が一〇時間、冬休み中が九ないし一三時間であり、また、概ね午前七時から七時半までの間に起床し、午後一一時から午後一二時には就寝するという規則正しい生活を続けていたから、職務による精神的・肉体的負荷はその都度解消されていた。

(九) 他の有力な原因の存在

(1) 家事等の負担の増大

被災職員は、昭和六三年一二月以降ほぼ毎日、肺癌のため入院した父親の見舞いをしていたほか、平成元年二月初めに退院してからは銭湯での入浴に付き添うなどした。さらに、同年二月初めからは次男の保育園の迎えを毎日被災職員がするようになった。

(2) 業務外のストレス

父親が肺癌に罹患し入院したこと及び教務主任になることに反対であった原告からその就任を問いつめられたり、平成元年一月に教員を辞めたいと告げられたことがあり、このことは被災職員にとって、精神的ショックであった。

(3) 昭和六三年四月からの被災職員の公務は過重なものではなく、むしろ、その精神的、肉体的負荷は、昭和六三年一二月ころからの家庭生活環境の変化により増大し、これにより平成元年二月二一日に死亡したというべきであるから、その死亡と公務との間に相当因果関係はない。

第三当裁判所の判断

一  被災職員の昭和六三年四月以降の職務(公務)の内容等

前記争いのない事実等に加え、証拠(〈証拠・人証略〉)を合わせれば、次の事実が認められる。

1  梅屋小学校における職場環境

梅屋小学校は、昭和六三年度、学級数が九、生徒数が二四八名であり、教職員数は、校長、教頭各一名、教諭七名、常勤講師二名、養護教員一名、非常勤講師一名、事務職員一名、管理用務員一名、給食調理員三名であった。校長、教頭、非常勤講師(週三日間新採用教員の指導を行うために配置された教員で学級を担任していない。)及び養護教員を除く教員(教諭七名、常勤講師二名)のうち、五名が転入者であり、そのうちの一名が新規採用者、二名が常勤講師であったため、学級を担任する教員数と学級数が同一であり、学級担任が教務主任を兼任せざるを得ない状況にあった。

梅屋小学校の昭和六三年度における校務は、教務、指導、管理等に分掌されており、指導、管理に関する校務は更に教科、同和教育、特別活動、調査統計、施設等に細分化され、それぞれについて担当者が決められていた。

2  昭和六三年度(昭和六三年四月一日から被災職員が死亡した平成元年二月二一日まで)に被災職員が担当した職務

被災職員は、第二学年い組の学級担任のほか、校務分掌のうち、教務主任、同和教育主任等の計一七の校務、育友会の庶務補佐、スポーツ教室におけるサッカーの指導を担当した。その職務の内容は、次のとおりである。

(一) 教務主任としての職務

その職務は、校長の監督を受け、教育計画の立案その他の教務に関する事項について連絡調整、指導及び助言に当たるというもので、市教育委員会より、全校的立場からの連絡調整、各委員会・各主任への働きかけ・指導・助言及び校内同和研修への取組等を求められる職務であり、その内容は次のとおりであった。なお、被災職員は、昭和六三年四月に初めて教務主任に就任した。教務主任は、いわゆる中間管理職的地位にあり、校長ら管理職と一般の教職員の双方に対して神経を使う立場にあった。

(1) 校務分掌表、時間割表及び学校行事年間計画の作成

これらは昭和六三年度当初に作成しなければならないものであり、校務分掌表、学校行事年間計画については、前年度のものも参考にしながら、校長の意向を踏まえたうえで、各教員の希望・意見を調整して作成された。また、時間割表の作成も、運動場や特別教室の割当の調整を要した。

(2) 学校教育目標の作成

右作業は校長の職務であったが、被災職員は、その補佐として学校全体の学校教育目標、重点目標、学年別重点目標等を策定するに当たり、各教科、各学年、各部署から意見を聴取し、それを一覧表にまとめた。右一覧表は市教育委員会に提出し、後刻その実施状況をまとめた報告を作成し、同委員会に提出しなければならないもので、被災職員は何度も修正をしながらこれを完成させた。

(3) 通知票の改訂

被災職員は、評価委員会の構成員でもあったが、教務主任としても昭和六一年度から続けられてきた通知票の改訂作業に参画し、改訂案の作成、職員会議での成案の決定、成案の印刷、校正、点検等を行い、昭和六三年六月に完成させた。

(4) 「心をたがやす教育」実施計画書の作成とその遂行

被災職員は、右教育の担当者でもあったが、教務主任としても各教員の意見をまとめて昭和六三年七月一二日付けで「心をたがやす教育」実施計画書を作成したが、右意見の取りまとめのため、各教員を指導・助言した。

(5) 校内自主研究発表の企画立案・準備

梅屋小学校における昭和六三年度の校内自主研究発表のテーマは体育(特に、ボール運動)であり、被災職員は研究委員会のメンバー、教科体育主任でもあったが、教務主任としても、その研究の進め方、内容の検討等について中心的役割を果たした。

(6) 新採用教員の指導

校務分掌上、新採用教員の指導の担当であり、初任者指導教員(非常勤講師)とともに、昭和六三年度に梅屋小学校に新採用で配属された橋本教員の指導にあたった。

(7) 授業参観の企画立案・準備

授業参観(昭和六三年四月二〇日、同月二七日、五月二四日、平成元年一月一八日、二月一四日、同月一五日)、日曜参観(昭和六三年六月一九日)、祖父母参観(昭和六三年九月一三日)については、日程調整のほか各学級の選定した教科や内容の調整、特別教室、講堂、運動場の使用調整等を行い、保護者用案内プリントや当日の案内図の作成・掲示等の準備を行った。

(8) 造形展の準備

平成元年二月一四日から同月一六日の間開催された造形展については、教務主任として使用器具や作品配置の連絡調整、会場の設営・展示等を行ったが、会場設営中に脚立から転落する事故に遭遇した。

(9) 半日入学の受入れ準備・当日の連絡調整

平成元年二月一六日に開催された新入生の半日入学の受入れについては、その日程の調整、名簿、入学のしおり等の作成等の準備を行った。なお、半日入学は、幼稚園側の都合で二月一七日から二月一六日に日程が変更された。

(10) 卓球大会の準備・当日の参加

平成元年二月一八日開催された育友会主催の卓球大会については、その打ち合わせ、教員チームのとりまとめ等を行い、当日参加した。被災職員はしんどいと言って、後かたづけをせずに帰宅した。

(11) 毎月の学校行事予定の作成等

毎月の学校行事については、予め予定表の原案を作成し、職員会議に諮り決定した。

(12) その他の雑務

家庭訪問・遠足・学芸会・雪山教室等についての保護者宛プリントの作成、職員の住所録、緊急時の連絡体制表の作成をした。また、夏休み中の日程、当番表の作成、校長・教頭との打ち合せ、毎朝の職員会議における当日の行事確認等日常的な雑務を処理した。なお、被災職員は右プリント等の文書の作成を使い慣れないワープロで行っていたため、右作成に長時間を要し、かなりの負担となった。

(13) これに対し、被告は、学校教育日標の作成は校長の職務であるなどとして、右の職務のうちには被災職員が現実に行っていないものがあると主張し、証拠(〈証拠・人証略〉)中にはこれに沿う部分がある。しかし、当時校長であった吉田光雄(以下「吉田」という。)は、被災職員から提出された昭和六三年度の週案に、「週案について本年度中にヒナ形を作ってみてください。」(四月一〇日欄)、「第二学期盛りだくさんの行事の他教務主任としての指導力を充分発揮して実り多い二学期にしてください。」(九月八日欄)、「二学期の後半になりました、一一月は行事が山積みしています、教務主任として満喫できるよう希望します。」(一一月三日欄)、「師走になりました、教務主任として来年に向けて考えていく時期になりました、公私共に多忙ですけれど早い目に構想を生み出してください。」(同月二九日欄)、「虎穴に入らずんば虎児を得ずといわれます、捨身になるということは時には大切なことです。」(一二月八日欄)、「第二学期ご苦労様でした、色々と心労があったことでしょうが、梅屋校の良さを自分のものにしましょう。」(同月二二日欄)、「第三学期平成元年度を見通してよろしく指導体制を確立してお力を発揮してください。」(平成元年一月二〇日欄)、「学年末について充分なテダテをよろしくお願いします。」(二月三日欄)、「あわただしい日々です、学年末引き継ぎについてもよろしくお願いします。」(二月九日欄)、「三月の行事予定ができました、学年末リーダーシップをお願いします。」(同月一六日欄)等のコメントを付しており(〈証拠略〉)、右コメントの内容からして、被災職員は、校長から、一年を通して、教務主任として、全校的立場から指導・助言するほか、校長等の管理職の職務を補佐する職務を期待され、これに応えて右職務を遂行していたと推認できること、被災職員のワープロインクリボン(〈証拠略〉)から被災職員が現実に行ったと推認できる職務の内容に照らすと、これを信用することはできない。

(二) 学級担任としての職務

被災職員は、昭和六三年度は前年度から持ち上がりで、二年い組(児童数三二)を担任し、概ね週二六時間の授業を担当したが、自ら作成したものを含む多数のプリント、計算・漢字ドリルを使用したり、日記や作文を書かせて添削指導をした。また、昭和六三年一〇月四日の運動会、同年一一月八日の学芸会では、それぞれ一・二学年の合同練習、演劇指導・道具作り等をしたほか、低学年の児童に対し、給食、用具・備品の整理整頓等基本的な日常生活上の生活指導を行った。さらに、毎週土曜日に翌週の授業・行事内容等を記載した「わかば」を作成して保護者に配付し、参観日、家庭訪問(同年五月九日から同月一八日)、年二回(同年七月一二日並びに一二月一九日及び同月二〇日)の個人懇談会等には保護者に児童の学力や行動を伝えるなどした。その他、梅屋小学校には事務職員が一人しかいないため、教材代金の徴収、実習材料の注文、給食費・育友会費の台帳への記入等の雑務も一人で処理した。

(三) 同和教育主任としての職務

その職務は、同和教育に関する事項について連絡調整、指導及び助言に当たるというものであり、被災職員は、市教育委員会や中京東支部同和主任会が主催する研修等を通じて同和教育に関する学習を行いながら、教員による校内同和研修(年九回開催されており、他の研修と比較しても多い。)の計画の立案、その具体的内容を議論するための同和委員会の司会・記録、同和研修の配付資料の作成等を行った。また、児童に同和教育を実施する上での素地指導の年間計画の編纂、二学年の指導案の作成及び全体の指導案集編纂のための取りまとめを担当した。二学年は単学級であったため指導案集の作成は一人で担当し、右年間計画や全体の指導案集の編纂は、各学年、各学級の作成状況を調整して行った。また、保護者啓発活動として、四月に実施計画書を作成し、同年一〇月一一日に啓発映画を上映したが、右準備として、同年七月下旬から右啓発映画の解説を読んで選んだ数本を台詞までチェックしながら視聴し、二本に絞ったうえで、同年八月一九日校内同和研修で上映し、教員の意見を聴取して上映する映画を選定した。

同和教育は、市教育委員会が教務主任に取り組みを期待するなど重要な教育と位置づけられており、その対応を誤ると、人権問題、差別問題に発展しかねないため、極めて神経を使うものであるうえ、研修会等の実施回数も多く、かなり多忙な職務であった。

(四) 体育関係の職務

(1) 校内自主研究発表に関する職務

梅屋小学校は昭和六三年一一月二二日開催の中京東支部自主研究(以下「自主研究」という。)発表校であり、そのテーマが体育であったため、被災職員は、研究委員兼教務主任兼教科体育主任として、研究主任の小島教員とその準備の中心的役割を担うとともに、自ら公開授業を担当した。すなわち、被災職員は、同年四月から、概ね月二回のペースで、直前の一〇月、一一月には頻繁に研究会等を開いて、検討・討議したほか、研究発表に向け、手分けをして調査した児童の運動能力等のデータの整理・分析を行った。また、発表当日に配布した数十丁に及ぶ研究冊子を編集し、右冊子のダイジェスト版を作成したが、右両冊子完成後に誤りが判明し、発表当日直前に右冊子の訂正作業もした。自主研究は、当該学校における学校教育研究を対外的に発表するものであり、発表校の評価に関わる重要な行事であり、その中心的役割を担っていた被災職員としては是非成功させたい行事であった。

なお、証拠(〈証拠・人証略〉)中には、自主研究については、橋本教員が最も熱心であったとする部分がある。しかし、吉田は、被災職員に期待して、研究科目を被災職員の堪能な体育にしたとしていること(〈人証略〉)、また、被災職員が提出した週案に、校長として、「自主研の進めについて小島先生と共にすばらしいものたのみます。」(昭和六三年四月二〇日欄)、「フレヤースポーツの課題をみんなのものにするには一輪車の件について一度データを取ればと思いますが。」(同月一五日欄)、「運動場を合理的にしてボール遊びが子どものものになるよう考えてみてください。」(九月二九日欄)、「自主研の授業について積極的に橋本先生に働きかけ教えてやってほしいと思います。」(一〇月二〇日欄)、「学芸会がすめば発表です、全体のリーダーとしておちのないようお願いします。」(一一月一〇日欄)、「研究の方小島先生とともにつめにはいってください。」(同月一七日欄)、「自主研リーダーとして又授業者としてご苦労様でした。」(同月二四日欄)とのコメントを付していること(〈証拠略〉)に照らして、右部分は信用することはできない。

(2) 体育分野の学校行事に関する職務

右行事としては、昭和六三年五月七日の運動を楽しむ会、同年六月の全校スポーツテスト、一〇月四日の運動会、一一月の走ろう会、平成元年一月の雪山教室等があったが、主任の安藤教員は昭和六三年四月に赴任したばかりであったたみ、教務主任兼教科体育主任である被災職員が指導・助言した。特に、雪山教室は昭和六三年度に全学年参加に変更したため検討に時間を要したし、一二月下旬には下見に行った。右雪山教室は、平成元年一月二五日から予備日の同年二月二一日に延期されたが、同月二〇日に中止が決定された。

(3) 体育主任としての職務

右(1)(2)のほか、日常的な職務として、体育用具の管理や夏期(六月下旬から九月初旬)には、プール指導とこれに伴うプール使用割当表の作成等を担当した。また、平成元年一月二九日の京都市主催の駅伝大会の応援や梅屋小学校の体育施設を開放する事業運営委員会の仕事にも関与した。

(4) 梅屋スポーツ教室に関する職務

梅屋小学校ではスポーツ教室を校務に準ずるものと位置づけており、被災職員は運営委員を担当したほか、サッカー教室を小島教員と担当し、毎週火曜日に午後四時三〇分から約一時間指導し、昭和六三年一一月二〇日実施のサッカー大会に引率するなどした。また、同年八月二四、二五日実施の夏季キャンプの参加申込書の作成、同キャンプへの引率等スポーツ教室全般に関与した。

(五) その他の職務

(1) 算数教科担当としての職務

主任の橋本教員は、昭和六三年四月に赴任したばかりであり、被災職員が指導・助言した。

(2) 児童活動・町別児童会に関する職務

各教員が担当する町の割当てをしたほか、昭和六三年四月一六日、七月一六日、一二月一七日に開催された町別児童会を運営した。

(3) 学校行事としての儀式主任としての職務

昭和六三年度入学式の実施及び同年度卒業式の計画、役割分担の決定等を行ったが、その際、管理職と教職員との意見調整等を要した。

(4) 安全教育に関する職務

その職務は、火災、交通事故等に対する安全教育や昭和六三年五月一六日、同年九月三日、同年一〇月一三日、平成元年一月二七日に実施された避難訓練、学校施設の安全点検等であるが、新任の橋本教員らが担当であったため、昭和六二年度に安全教育を担当した被災職員が指導・助言した。

(5) 調査統計主任としての職務

被災職員は、児童数、長期欠席児童の実態等の調査・報告、転入・転出等の書類の作成を担当した。右書類は、学校運営の基礎的資料となるため正確性の要求される職務である。

(6) 施設備品担当者としての職務

昭和六三年度は、市教育委員会の備品検査があったため、同年六月二七日から全教員で点検を行ったが、六月二九日、同月三〇日には深夜午前〇時すぎまで確認作業をした。

(7) 育友会活動の庶務補佐としての職務

梅屋小学校では育友会活動は学校教育の一環として行われており、被災職員は、その教務主任がその役職に就くという慣例に従い、育友会活動の全般にわたり、案内等のプリントの作成、会場の確保、用具・要員の確保等の庶務を補佐した。平成元年一月二七日には、育友会選挙に教頭とともに出席した。

(六) このように、被災職員は、昭和六三年度に教務主任等他の教員と比較して多数の校務を担当し、別紙〈略〉〈1〉記載の年間行事について、一年間を通して、中心的な役割を果たしており、とりわけ、運動会、学芸会、保護者に対する同和教育啓発ビデオの上映、自主研究等の大きな行事が連続した二学期及び半日入学、造形展等の行事や次年度の準備をしなければならない三学期は多忙であった。

3  被災職員の昭和六三年度における勤務状況

(一) 所定内勤務の状況

被災職員の勤務時間は、平日が午前八時四〇分から午後五時二五分まで、土曜日が午後〇時四〇分までであった(但し、平日の午後四時一〇分及び午後五時一〇分からの各一五分間は休息時間、午後四時二五分から午後五時一〇分までは休憩時間、土曜日の午後〇時二五分からの一五分間は休息時間である。)。

被災職員は、概ね午前八時三〇分ころ出勤し、次男を保育所に迎えに行く月・水・金曜日には、概ね午後四時三〇分から午後五時一五分ころまでの間に、梅屋スポーツ教室のサッカー指導をしていた火曜日には午後五時三〇分ころに、職員会議や研修会等が開催される木曜日にはその終了後に学校を出ていた。なお、平成元年二月ころからは毎日次男を迎えに行くようになったたた(ママ)め、概ね毎日午後四時三〇分から午後五時一五分ころの間に学校を出ていた。

(二) 所定時間外勤務の状況

(1) 自宅における職務について

被災職員の自宅における持ち帰り仕事は常態化しており、特に、自主研究等の大きな行事が連続する二学期及び半日入学等の準備や次年度の準備のある三学期は連日数時間程度自宅で持ち帰り仕事をしていた。

なお、被災職員が担任していた学級の児童は、授業が四時限で終了する場合には、給食が終わる午後一時ころ(但し、土曜日を除く。)に、五時限で終了する場合にも午後三時ころには下校していたと認められる(〈証拠略〉)が、前判示の被災職員の職務内容に照らすと、右認定を左右するものではない。

この点について、被告は、自宅での持ち帰り仕事は任命権者の支配管理下にないことなどを理由に、正規の時間外勤務と同様に評価することができないと主張するが、自宅における公務の遂行を学校内におけるその遂行と別異に解すべき合理的理由はないから、被告の主張は理由がない。

(2) 死亡前一か月間の職務

ア 死亡前日

被災職員は、午前八時ころ出勤し、一・二時限の授業をした後、中間休みに雪山教室の中止を決定し、三・四時限の授業を行った。昼休みには、給食指導を行いながら、本読みカード等の添削をした後、午後一時から運営委員会に出席し、三月の行事や卒・入学式の原案を提案し、これにつき協議し、午後二時から午後三時まで校内生徒指導研修会に参加した。その後、「きょうとタイム」の報告書を作成し、午後四時三〇分ころ学校を出た。帰宅後の午後八時三〇分ころ、自宅に学校に設置してある電気陶芸窯のスイッチを切り忘れたかもしれないとの電話があったため、学校に行き、右スイッチを切って午後九時ころ帰宅した。

イ 死亡前一か月間(平成元年一月二一日から同年二月二〇日まで)

通常の授業を行ったほか、特筆すべき職務は別紙〈2〉記載のとおりである。

二  被災職員の健康状態、嗜好等

証拠(〈証拠略〉、原告本人、弁論の全趣旨)によれば、次の事実が認められる。

1  健康状態の推移

被災職員には、昭和五〇年度から昭和六三年度に実施された健康診断(各年度概ね五月又は六月に実施)では異常所見はなく、それまでに特に既往症はなかった。

しかし、被災職員は、昭和六三年一〇月下旬に風邪を引いたほか、体調不良により平成元年一月二八日の第三錦林小学校における国語研究会、同年二月四日永松センターにおける京都タイム発表会及び同月一八日の育友会の卓球大会を早退した。同月には朝、頭痛があったが、教務主任の地位にあったうえ、他の同僚に迷惑をかけることができないので、無理を押して風邪薬を飲んで出勤したことがあった。また、同月中には胃の不調を訴え、胃腸薬を服用し、食べ物の嗜好も脂っこいものから和食に変わり、給食のパンも残すようになっていた。被災職員は、二月一一日には、一日中自宅で寝ていた。同月一四日ころには職員室の壁にもたれ、冷や汗をかいたような感じで「しんどい」とか、胃を押さえて調子が悪いともらすなどした。

2  嗜好等

被災職員は、一日当たり、たばこを一〇本程度吸い、コーヒーを五、六杯飲んでいたが、飲酒は自宅ではせず、外で飲むときもビールをコップ一杯程度であった。

三  公務起因性の判断基準

1  地方公務員災害補償法三一条にいう「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務により負傷し、又は疾病にかかり、右負傷又は疾病により死亡した場合をいい、公務と死亡との間に相当因果関係のあることが必要である。そして、公務と死亡との間に相当因果関係があるというためには、必ずしも公務遂行が死亡の唯一の原因であることを必要とするものではなく、当該公務員の素因や既存の疾病等が原因となっている場合であっても、公務の遂行が公務員にとって精神的・肉体的な過重負荷となり、既存の疾病等を自然的経過を超えて急激に増悪させ、死亡の結果を発生させたと認められる場合には、相当因果関係があると認めるのが相当である。

2  また、右因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる程度の高度の蓋然性を証明することであり、その立証の程度は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるから、厳密な医学的判断が困難であっても、当該職員の職務内容、就労状況、健康状態、基礎疾患の有無、程度等を総合的に考慮し、それが、現代医学の枠組みの中で、当該発症の機序として矛盾なく説明できるのであれば、公務と死亡との間に相当因果関係があるというべきである。

四  本件における公務起因性について

1  被災職員の死因

証拠(〈証拠略〉、弁論の全趣旨)によれば、被災職員は発症から数分で死亡したものと推定されること、死亡直後の被災職員の脳脊の髄液は清明であったこと、発症から二四時間以内の突然死の約七割が心疾患によるものであるとする報告があることに照らすと、被災職員は、脳原性突然死の可能性は低く、心臓性突然死と推認することができる。そして、心臓突然死の場合の多くは致死性不整脈によって死亡していること、右致死性不整脈の基礎疾患のうち最も多いのは心筋梗塞等の虚血性心疾患であることに照らし、被災職員は急性心筋梗塞(又は急性心筋虚血)を発症し、これに続発する致死的不整脈による心不全により死亡したものと推認するのが相当である。

これに対し、被告は、被災職員の死因は原因不明のいわゆるポックリ病であるとの可能性を排除できないと主張し、証拠(〈証拠略〉)中には、突然死を死者とする者のうち、被災職員の属する三九歳以下の年齢層で最も多かったのがポックリ病で三八・二パーセントであったとする統計結果があることが認められる。しかし、右統計の二番目の死因は心血管系疾患で三二・七パーセントであり、ポックリ病との差は僅かであること、急性心筋梗塞等の虚血性心疾患が突然死の半数以上を占めるとする統計結果が多数あること(〈証拠略〉、弁論の全趣旨)、また、右ポックリ病自体医学的には十分解明されていないものであることに照らすと、右推認を左右するものではない。

2  そこで、被災職員の死亡と公務との間に相当因果関係があるか否かについて判断する。

(一) 証拠(〈証拠略〉、弁論の全趣旨)によれば、急性心筋梗塞等の虚血性心疾患に関し、次のような医学上の知見を認めることができる。

(1) 虚血性心疾患とは冠状動脈の血行障害による心筋の虚血状態により生じた心筋の障害をいうが、このうち、虚血が一過性で心筋障害が可逆性のものを狭心症といい、虚血が持続するために心筋が壊死に至るものを心筋梗塞という。

(2) 心筋梗塞等の虚血性心疾患は、高血圧や動脈硬化等による血管の病変等の素因(心疾患)が加齢や喫煙、飲酒等の種々の一般生活上の要因等によって増悪し、発症に至るものとされており、その五大危険因子として、高血圧、喫煙、コレステロール、糖尿病、肥満が挙げられているが、そのほかに、身体的疲労や精神的ストレスもその増悪の原因となる。

(二) もっとも、身体的疲労や精神的ストレスはその発生や受容の程度及び身体に与える影響について個体差があることから、どの程度の身体的疲労や精神的ストレスの蓄積があれば、心筋梗塞等の虚血性心疾患がどの程度増悪するかを厳密に医学的に証明することは困難であるといわざるを得ない。しかしながら、法的な因果関係には必ずしも厳密な医学的判断を要するものでないことは前判示のとおりであるうえ、管理職等の精神的な負担が大きい職種に就いている人や長時間労働者に脳・心疾患事故が多く発生しているなど、身体的疲労や精神的ストレスによる慢性的な疲労の蓄積と心筋梗塞等の虚血性心疾患との関連を窺わせる統計が多数紹介されていること、医学的には、ストレス時には自律神経系、特に交感神経系の反応が強くなり、副腎髄質からカテコールアミンが分泌される結果、血圧上昇、心拍数増加、冠動脈攣縮、自動能亢進、リエントリー促進、心室細動閾値低下等が生じ、血管の病変や不整脈につながると考えられていること(〈証拠略〉、弁論の全趣旨)に照らすと、身体的疲労や精神的ストレスが心筋梗塞等の虚血性心疾患発症の危険因子であると認めることは法的に十分合理性を持つものというべきである。

3  そうすると、被災職員の急性心筋梗塞(又は急性心筋虚血)による死亡とその公務との間の相当因果関係の有無を判断するには、その発症の当日、その前日さらには発症前一週間等の発症直前のみならず、それ以前に公務により受けた身体的疲労や精神的ストレスの蓄積が血管の病変等を自然的経過を超えて増悪させるものであったかについても考慮する必要があるというべきである。

なお、被告は、本件のような心血管疾患の場合の公務上外認定は、本件通知によるべきであると主張するが、右通知は公務上外認定処分を所管する行政庁が処分を行う下部行政機関に対して運用の基準を示したものにすぎず、公務外認定処分取消訴訟における公務起因性の判断について、裁判所を拘束するものではないから、右主張は採用できない。

4  そこで、前判示のような被災職員の従事していた職務とそれによる身体的疲労及び精神的ストレス、右ストレス等が与える影響について検討する。

(一) 梅屋小学校における職場環境に起因する過重性

昭和六三年度の梅屋小学校の全学級数は九、教職員数は校長、教頭のほか、学級を担任する教員が九名(教諭七名、常勤講師二名)であり、右九名のうちの五名が転入者(そのうちの、一名が新規採用者、二名が常勤講師である。)であったところ、被災職員は前年度から在籍していた四名の教員の一人であったこと、学級数と学級を担任する教員数が同じであったため、学級担任が教務主任を兼任せざるを得ない状況にあったことは前判示のとおりであり、五名の転入者が梅屋小学校の教育方針を理解し、その職場環境に慣れるまではその職務分担について配慮せざるを得なかったため、被災職員を含む前年度からの在籍者四名の教員に負担のかかる職場環境であったということができる。

(二) 校務分掌上の過大な負担による過重性

被災職員が、昭和六三年度梅屋小学校における二学年の学級担任に加え、教務主任、教科体育主任、同和教育主任、設備備品、学校行事儀式主任、研究会委員等を含む一七の校務分掌を担当し、育友会の庶務補佐、スポーツ教室をも担当したこと、教務主任は中間管理者的地位にあり、管理職と一般教職員の間にあって、双方に対して神経を使う立場にあったこと、同和教育主任としての職務はその対応を誤ると差別問題に発展しかねないため、神経を使うものであるうえ、研究会等の実施回数も多く、多忙であったこと、さらに、昭和六三年度は梅屋小学校が自主研究の発表校であり、教務主任兼教科体育主任としてその成功に向けて中心的な役割を果たしたこと、被災職員が担当した二学年は単学級であり、被災職員は学級担任の職務を一人で行わなければならなかったことは前判示のとおりであり、このような校務分掌は、昭和六三年度の梅屋小学校における他の教員に比べて過重なものであったということができる。このことは、平成元年度には、教務主任と同和教育主任及び教科体育主任との兼任を避けるなどの配慮がなされていること(〈証拠略〉)から明らかである。

(三) 昭和六三年度当初からの過密な労働実態による過重性

被災職員は、学級担任としての仕事のほかに、多数の校務を分掌し、自主研究を含む多くの行事に中心的存在として関与していたため、被災職員の自宅での持ち帰り仕事が常態化していたこと、特に、自主研究等大きな行事が連続して行われた二学期及び半日入学、造形展等の行事や次年度の準備をしなければならない三学期には自宅での持ち帰り仕事は数時間程度に及んでいたことは前判示のとおりであり、自宅における長時間の労働が常態化していたということができる。

(四) 被災職員自身の事情に起因する過重性

被災職員は、教務主任を初めとする多種雑多な職務を引き受けたところ、職務熱心で、責任感が強かったこと(〈人証略〉)から、これが結果として過大な負担を背負うことになったと推察される。

(五) 精神的重圧の過重性

校長の吉田が被災職員の提出した昭和六三年度の週案に種々のコメントを付したことは前判示のとおりであるが、被災職員を叱咤激励するこれらのコメントは、教務主任として中間管理者的地位にあった被災職員にとっては、相当な精神的重圧になったものと推察される。

(六) 公務起因性

(1) このように、昭和六三年度の被災職員の職務(公務)は、通常の小学校教員に比べて、肉体的、精神的に過重なものであったこと、被災職員はこれらの多様な職務に誠実に取り組み、自宅における長時間の持ち帰り仕事(公務の遂行)が常態化していたこと、被災職員自身、教務主任への就任は初めてであり、より一層強い緊張と精神的ストレスの負担の下で職務を遂行していたものと推認されることに照らすと、右職務(公務)の遂行による身体的疲労及び精神的ストレスの蓄積は、加齢や日常生活上の諸要因による自然的経過を超えて虚血性心疾患に至る血管の病変等を発症ないし促進する要因になりうる程度の負荷であったと認めるのが相当である。そして、右身体的疲労や精神的ストレスの蓄積は、とりわけ、運動会、保護者に対する同和教育啓発ビデオの上映、自主研究発表等の大きな行事が続いた二学期には断続的に続き、冬休みにも十分に休息がとれないまま、半日入学、造形展等の行事や次年度への準備もしなければならない三学期に至ったものであり、このことは、被災職員が、自主研究の準備が追い込みに入った昭和六三年一〇月下旬に風邪を引いたことや体調不良により、平成元年一月二八日の国語研究会、同年二月四日のきょうとタイム発表会、同月一八日の育友会主催の卓球大会を早退したことにより裏付けられているというべきである。

これに対し、被告は、昭和六三年四月以降の被災職員の日常生活は規則正しいものであるし、原告の主張を前提としても、その睡眠時間は、平日でも七時間三〇分以上(但し、平成元年二月一七日からは六時間以上)、夏・冬休み期間中は一〇時間前後であるから、職務による精神的・肉体的負荷はその都度解消されていたと主張し、原告本人も被災職員の生活が概ね規則正しいものであったことを認めている。しかし、被災職員の健康状態が昭和六三年度二学期以降、良好でなかったことは前判示のとおりであり、その身体的疲労や精神的ストレスがその都度解消されたとは認め難い。

(2) 一方、被災職員は、昭和五〇年度から昭和六三年度に実施された健康診断(各年度概ね五月又は六月に実施)で高血圧等の異常所見はなく、血管の病変等の基礎疾患が存在したことを窺わせる証拠もないことや同人の死亡時の年齢(三九歳)からすると、加齢及び日常生活上の負荷による自然的経過のみによって、急性心筋梗塞(又は急性心筋虚血)発症に至ったとは考え難いというべきである。

この点について、被告は、被災職員の精神的、肉体的負荷は、職務の負荷によるのではなく、昭和六三年一二月ころからの家庭生活環境の変化によるものであり、右公務外の事由による負荷が被災職員の死亡の原因であるから公務起因性はないと主張する。

たしかに、証拠(原告本人)によれば、被災職員の父親が昭和六三年一二月ころ癌で入院したこと、被災職員は、平成元年一月に原告から教員を辞めたいと告げられたこと、被災職員は、父親が入院中(昭和六三年一二月ころから平成元年二月初めまで)、ほぼ毎日見舞に行き、同人が平成元年二月初めに退院してからは銭湯での入浴に付き添うなどしていたこと、原告が体調を崩した同年二月初めからは、次男の保育園の迎えを毎日するようになったことが認められ、右事実によれば、被災職員が職務以外の事由により、一定の精神的ショックと身体的疲労を被ったと推認することができる。しかし、これらの事由のみからで、前判示の健康状態にあった被災職員が急性心筋梗塞(又は急性心筋虚血)により死亡するに至ったとは考え難く、被災職員は、昭和六三年度四月以降の梅屋小学校における多忙な職務の遂行による持続的な身体的疲労及び精神的ストレスの蓄積が血管の病変等を自然的経過を超えて発症・促進させ、同年二月二一日午前六時ころ、急性心筋梗塞(又は急性心筋虚血)を発症し、心不全により死亡するに至ったものと認めるのが相当であり、被災職員の死亡と公務との間に相当因果関係があるということができる。

(3) したがって、被災職員の死亡は公務上の死亡であると認定するのが相当である。

第四結論

以上によれば、被災職員の死亡について公務外であるとした本件処分は違法であり、右処分の取消しを求める本訴請求は理由があるからこれを認容することとし、主文のとおり判決する。

(口頭弁論終結の日 平成一一年八月二七日)

(裁判長裁判官 大谷正治 裁判官 山本和人 裁判官 西田政博)

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